ある離島(岡山県の頭島)を歩いていて、その漁港で出合った年老いた漁師と立ち話
「ワシは昔からこれしか読んでいない、
これに全て書かれておるから」とボロボロになった杜甫(中国唐代の詩人)の漢詩の詩集を見せてくれた…
ある意味カッコよかった
そんな私に「座右の書」なんてあっただろうか…
あえて選べというなら金子みすゞの童謡集だろうか…

「50代後半のオヤジが童謡集?」なんて笑わないでいただきたい
読んでいると結構「う~ん」と惹き込まれるような童謡もけっこうある
「お日さん、雨さん」 金子みすゞ
ほこりのついた
芝草を雨さん洗ってくれました。
洗ってぬれた芝草を
お日さんほしてくれました。
こうして私がねころんで
空をみるのによいように。この童謡を読んで、人間ってやはり何かに支えてもらわないと生きていけない存在だなと思わずにはいられない
ある意味「仏教エッセンス」が含まれた童謡だと思う
みすゞの童謡は他に
「みんな違ってみんないい」
「見えないものでもあるんだよ」
など心に刺さる有名な童謡はあるんですが、私はこの「お日さん、雨さん」が一番気に入っている

人間は人として生まれて社会生活を営んでいく過程で多くの人との間に関係をつくり、自分と他者とを照らし合わせて学習し「人間」になっていきます
ときには一人となって、自分と向き合って「自分と対話」することも必要ですが
金子みすゞの童謡は、仏教関係者によってその宗教的世界観が高く評価されており、私もこの童謡集は愛読書でもあります
山口県にある金子みすゞの生家「金子みすゞ記念館」にて今度その島へ行って、もしあの時漁港で出会ったお爺さんに再び出会ったら
「私の愛読書はこれです」と見せてあげよう
しかしもう30年近く前のことだからあのお爺さんが生きていたらの話ですが…
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- 2021/01/19(火) 23:05:56|
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図書館で借りた本は2冊
赤瀬川原平さんと山下裕二さんの「オトナの〇〇シリーズ」
「京都、オトナの修学旅行」編と「オトナの社会科見学」編です
怪しげなオヤジ二人が学生服着て金閣の前で…
この本の内容を象徴する表紙だ
「京都、オトナの修学旅行」これで借りたのは3度目になった
赤瀬川原平さんといえば「老人力」で有名な作家・美術評論家・写真家など多彩な一面を持つ、私にとって憧れのオヤジです、2015年に亡くなられました
山下裕二さんは美術家・明治学院大学教授という美術研究家でもあります
この二人が「日本美術応援団」という組織を結成し、アチコチで日本美術を応援しているという…
なんか仏像を愛して、チョイふざけながらそして真面目に仏像鑑賞に勤しむ、みうらじゅんさんといとうせいこうさんの「見仏記」に通じるものがあり、私は好きですね
この2冊のうち、「京都、オトナの修学旅行」編の、赤瀬川さんの「まえがき」にはグッときました
要約すると
『今回の取材中にあちこちのお寺で修学旅行の小中学生に出会った。しかし仏像やお寺を興味のある目で見ているところはあまり出会わなかった。自分の小中学生時代の経験を照らしてみてもあの年齢で日本の古美術に接してストレートに実感できるものは無いだろう。
今は洋服を着て、テレビのキラキラが当たり前になっている現代人の目には、日本美術が地味で無口でとっつきにくいものであることは確かだ。特に自分を工夫できない子供には。
しかし子供と違って大人は、それまでの人生の中でたくさんの経験を積み重ねてきて、明るい良さだけでなく暗い良さ、ハッキリした良さだけでなくあいまいな良さ、物事には裏の裏の裏があることを経験してきている。
要するに酸いも甘いもかみわける人間となってきたところで、襖絵や仏像、お寺の造作などの味わいを感じられるようになったのではあるまいか』
まさにその通りです
私も子供の頃から好きだった仏像ですが、大人になって「地味だが近寄って初めて気付く良さ、精神的な良さ」が解るたびに仏像好きが加速して、同級生を巻き込んだ「見仏クラブ」発足に繋がったのだと思う
「まえがき」の続きになりますが
『いずれにせよ日本美術をみるにはオトナであることが必要だ。知識が必要という事ではない。観る物に対する感覚的な経験が必要であるということだ。
京都の修学旅行は絶対にオトナになってからがオススメである。子供の修学旅行はまあ、初体験というかご挨拶程度なのもで、オトナになってから裏をかえさないとなんにもならない。
だれでも大人の修学旅行をあやれば「ああ子供の時の修学旅行はただ歩いているだけでもったいなかった」と思うだろう』
きっと誰もがオトナになってから気付く良さってものがあるはずです
だからあえて言う
「修学旅行は大人になってこそ行くべきだ」
「オトナの社会科見学」この「京都、オトナの修学旅行」編と「オトナの社会科見学」編
何度読んでも飽きない本です
これで年末年始の休みは事足りるだろう
- 2019/12/24(火) 19:15:53|
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私の住む町の神社にて
この神社は小高い山の中腹に本殿があり、その鬼門(北側)であり本殿裏側から鬱蒼な階段が続いている…

この階段は晴れていても薄暗く、夏はやぶ蚊や蛇などが発生するまさに鬼門だ…
そこを抜けると明るい開けた場所に出て、何故か「生まれ変わった」あるいは「生きてこの世に帰ってきた」と感じることしばしば
この階段を登る度に宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」を思い出す
先日久々に読み返してみた…

簡単にあらすじを
主人公の少年ジョバンニは学校でいじめられっ子だ
夜祭の時、ジョバンニは気が付くとある列車に乗っていた
それは銀河を走る列車だった
同じ列車内に友人のカムパネラが乗っていることに気付く
二人は「鳥を獲る人」「赤帽の人」「石炭袋」など説明のつかない不可思議なものと出会いながら星座から星座へと列車は走る
やがて日常に一人戻ったジョバンニは、祭りの夜に川へ落ちた友人を助けようとしたカムパネラが溺れて亡くなったことを知る
列車の中のカムパネラはまさに「死の世界へ」旅立つ途中だったのだ
つまり銀河鉄道は死と生の狭間を走る列車と考えて良いようです
二人の列車内の会話が印象的だった
ジョバンニ「カムパネラ、ぼくたちはどこまでもどこまでもいっしょに行こう」
カムパネラ「うん。僕だってそうさ」
ジョバンニ「けれどもほんたうのさいはひは一体なんだろう」 (さいはひ=幸)
カムパネラ「僕はわからない」
その後ジョバンニが振り返ったらカムパネラがいた場所には誰も居らず、黒いビロウドが輝くだけだった
ここで言う「本当の幸」とは何だろうか…
一人残されたジョバンニがおそらく一人でその答えを探し続けるのだろうというところで物語は終わってしまっている
「僕はわからない」といった部分にこの童話の核心があったのかと思う
もしこの本の中で「本当の幸」は何かという答えが出て来たら、その瞬間に唯の「宗教本」あるいは「人生哲学本」になってしまう
「銀河鉄道の夜」自体が問いかけの本ということになるんだろうな…
しかし宮沢賢治っていうのは謎かけ・問いかけの童話ばかり書いているなァ
今夜も寝る前にこの不思議な世界に浸ってから眠ります
- 2018/03/14(水) 20:56:08|
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