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古いデジタルカメラで写真散歩・寺巡り・歴史・仏教など…

あのとき竜馬を殺らなければ…

梅雨らしくなってきました
雨が降ったら涼しくなって、止んで晴れたらめっちゃ暑くなる
この繰り返しで体が滅入ってしまいそうです
こういう時は涼しい写真を見て気分だけでも清々しくなりたい

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幕末の京都、大政奉還を発案し土佐藩を通じて将軍徳川慶喜に内説し歴史を動かした坂本竜馬。
その竜馬が大政奉還直後に暗殺される。誰が暗殺したのか?現在の有力な説は、佐々木唯三郎が率いる「見回り組」という説。私もそれを支持します。

大政奉還直後、京都の二条城にいた徳川慶喜は、誰から聞いたか坂本竜馬の名を知った。そして反幕側で唯一非戦論者で、大政奉還の立案者であることも知った。慶喜にすれば敵見方を越えて唯一「同志」を見出した思いがあっただろう
「土州の坂本竜馬には手をつけぬよう、新選組・見回り組の管掌者にはよく注意しておくように」と幕臣の永井尚志に指示する。永井にとって竜馬は、敵である「反幕の志士」ながら日本の将来について同じ思いの者同士。竜馬は暗殺される寸前まで永井の屋敷に出入りしていたのであった。翌日永井が出仕したところ机の上に紙切れがあって「昨夜、坂本竜馬を暗殺した」と踊るような書体で書かれてあった

「遅かったか…」

永井は落胆したことだろう

実は永井の京都屋敷と竜馬の潜伏先(近江屋)の道中に見回り組の宿舎があったのだった。永井の屋敷に足蹴に通う竜馬の姿を佐々木は見たことであろう…これは竜馬の不覚としか言いようがない


非戦論者である竜馬が暗殺されなければ、幕府を倒す鳥羽伏見の戦いはおこらなかっただろう。おきても遅くなったか別の形になったはず…
竜馬は旧幕府勢力も新政府に参加させるプランを練っていて、雄藩連合と朝廷のみで新政府を目指していた西郷・大久保の薩摩には悩みの種だった。だから一時は薩摩藩も暗殺の黒幕かと疑われた時期もあった。

ではその後、竜馬暗殺集団を率いた佐々木唯三郎はどうなったのか…

かれはその鳥羽伏見の戦いに参加して、銃弾を喰らい退却。その傷がもとで紀州の三井寺で死去する。銃弾は腰骨に刺さったままだったそうな…当初は従者を200人引き連れていたが、やがて散り始め、死ぬ間際は20人程度しか残らなかったそうな。

「あの時竜馬を殺らなければ…」なんて唯三郎は思わなかっただろう
大政奉還の立役者で、幕府側の生き残りを考えていたプランナーなんて知る由もない
しかし竜馬を暗殺したことによって自身の死期が早まったことだけは事実だった

雨が降るから、晴れると余計暑く感じる

竜馬を暗殺するから見回り組を管掌する幕府の壊滅時期が早まる…

これも巡りあわせか…

う~ん、今日の日記は無理やり「こじつけた感」が満載だなァ


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今日も雨が止んだら暑かった…







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  1. 2017/07/01(土) 21:58:21|
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近所の歴史文化財巡り

本棚を整理していたら10年ほど前に市役所で買ったファイルが出てきた…

姫路市の「文化財見学シリーズ」
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姫路市の各地区ごとに発行している地域の文化財パンフを全てスクラップにしてまとめたものです
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これを見れば姫路市内中の文化財の詳細が分かります

私は当時、これから行く地区のパンフレットを切り離して、デジカメと一緒にワンショルダーに入れて自転車でアッチコッチ文化財巡りをやっていました。そこで地元を含め普段は何気なく通っている町でも素晴らしい文化財があることに気付いたのでした…

その時のパンフレット片手に石仏巡りした写真を見直す…

私の住む地区のお地蔵さん2体
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作者も時代も違うけど、2体とも左手に宝珠、右手に錫杖の代わりに何故か木の棒を持っている
何か共通の謂れがあるのだろうか…
当時お参りしていた地元の人に訊いても誰も明確な答えは知っていなかったので、ネットや図書館の資料、地元の歴史に詳しい人に訊いてみたりしたが結局判らずじまいだった…

「ガチャガチャ地蔵」
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鎌倉時代の地蔵で、昔から山の中腹に祀られていて、江戸時代に寂しいだろうと麓の村人たちが山から降ろして祀ると、夜な夜なガチャガチャ体を揺らしたので畏れた村人たちが元に在った山に帰したという伝説が…

「キリシタン地蔵」
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現在は無住の荒れ寺にひっそりと居られます
背中にはパンフレットにあるように十字架らしき紋章が…完全な十字架でないところが「隠れキリシタン」的で納得

「夜啼(よなき)地蔵」
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私の住む隣の地区のお地蔵さんで、室町時代に父を殺され、母を連れ去られた乳飲み児が夜な夜な母を恋して泣きやまなかったが、母の尊んでいた地蔵に助けられ、乳を呑んだという伝説

色々調べてると、地元でも自分が知らなかった伝説に彩られた文化財が多いことに驚きます

皆さんも一度足元の文化財を巡ってみては?



  1. 2017/05/18(木) 21:54:06|
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見直した坂本竜馬と突っ走った武市半平太

時々ブログを見てる友人から「最近歴史ネタ少ないやん」と言われた
写真ネタも尽き始めたのここで久々に歴史ネタを…


これまで撮り溜めた写真ファイルを見て、10年位前にあるお寺の門前の掲示板で見た言葉

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「人生やりなおしは出来ないが見直しは出来る」

いい言葉だ

これを読んでふと、幕末の坂本竜馬と武市半平太を思い出した

当初は二人とも土佐勤王党を結成し、共振しているとみえたが翌年にはまったく別の道を進んだ

藩の実権を握った武市は京に上って「人斬り以蔵」こと岡田以蔵らを使って暗殺の黒幕となる

かたや坂本は脱藩して勝麟太郎(海舟)に師事し自身の天命に目覚めた
そして「攘夷」で頭に血が上っている武市一党のところにやってきて「西洋船で海軍をやろう」とぬけぬけと勧めるのだった。このあたり「洋臭者」としてよく武市ら一党から斬られずにすんだと思うが人柄の良さからか竜馬にすり寄ってくるものもいたそうな。「人斬り以蔵」こと岡田でさえ竜馬の前では「借りてきたネコ」になってハイハイと何でもいう事を聞く。なんと武市側からすると敵である幕府側の勝麟太郎の警護を竜馬から依頼されて岡田は警護に当たり、京都で勝の暗殺を企てた攘夷志士3人と戦って一人を惨殺したという。

その後自身の信念を曲げず突っ走った武市は功成らず土佐藩に戻ったところを摑まり下獄
牢に入った武市は、腹を切る前に竜馬の夢が実現しつつあることを知っていたのだろうか?

一方の竜馬は勝の下で洋学を学んだり、長崎で西洋人と直接会って西洋人のものの考え方を聞き、それを彼なりに咀嚼し理解していったと思われる。土佐勤王党や攘夷一辺倒の考え方では、もうこれからの日本は立ち行かなくなると考えたと思う。これまでの自分の考え方を何度も見直していたことだろう

彼の日記に
「義理などは夢にも思う事なかれ。 身をしばらるるもとなり」
との言葉は、竜馬が何度も自分の考えを「見直した」結果、出た言葉かと思う…

でも結局、最後の最後に竜馬も自身の夢(世界の海援隊)も成らず暗殺されてしまうことになるが…

「人生やりなおしは出来ないが見直しは出来る」

う~ん、深いなァ




  1. 2017/04/27(木) 21:49:57|
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鳩の鳴き声と日露戦争

高校生の時、鳩(キジバト)の鳴き声について友人と論争したことがある
「ポッポ」か「グルッポ」かについてだった…

ネットで「鳩の鳴き声 聞こえ方」で検索したら
「クルックー」「ポッポ」「グルッポ」「クルック―」「とうとうー」など人によって聞こえ方がまるっきり違う
あるサイトでは論争となって「ついに決着!」なんていきり立っているところもある

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鳩にとってはどうでもいいことですが…

聞こえ方がバラバラに対して、喋り方(言葉)のほうがバラバラだったらもっと始末が悪い。

日露戦争の日本海海戦時、戦艦三笠の司令部では、「長州弁」「薩摩弁」などあらゆる方言や訛りが飛び交ってまともに会話できなかったとききます。
だって江戸時代の200年以上、三百諸藩がそれぞれ独自の文化を発展させたせいもあり、明治政府になって国民国家を成立させるために政府は「標準語」を作り出し、必死に教育したが、江戸期育ちの将校クラス以上になるとそんなものは全く関係なく、「テゲテゲにせい!(長州弁)」なんて命令されても部下たちには全く理解できない。
NHKドラマの「坂の上の雲」で東郷平八郎(渡哲也)や秋山真之(本木雅弘)が、ドラマではカッコよくしゃべっていますが、実際には薩摩弁や伊予弁で喋っていたとなると、何となく面白い…

更に遡って幕末となるともっと酷い
尊王攘夷を推し進めようと全国から志士たちが京都に集結、しかしとにかく意思疎通は「手紙」だ。
なんせ隣の旅籠(はたご)に居る人まで手紙を出したと聞く。
会っても言葉が通じないので仕方ないか…

こんな話を鳩が聞いたら
『鳴き声をあーだこーだ言って、人(鳩)の事は言えませんね』
と呆れるだろうな…

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鳩って目を閉じると意外とカワイイなァ

『グルッポ―』



  1. 2017/04/04(火) 19:11:10|
  2. 歴史
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京都は好きか?

「京都は好きか?」と訊かれると戸惑うかも…

京都のお寺は大好きで、私のお気に入りの仏像が沢山ありますが、京都の街中に立っていると何か落ち着かない
どちらかというと奈良の方が私は落ち着く

京都出身の友人と会話していると地元を大変大事にしており、いかにも「京都ブランド」って「誇り」が会話の端々に感じられるのは気のせいだろうか…
でも「京都ブランド」ってやっぱり凄いと正直思う。だって約800年も日本の中心であったし、明治維新の際「江戸」から「東京」というように京都に遠慮がちに「東の京」と名が変わった感じがするし…

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「京モノの口うるささ」ってやはりあるのだと思う。

源平の争いのさなか、まず木曽義仲が京都を制圧。しかしその兵どもが強姦、略奪、放火など乱暴の限りをつくしたので天下の信用を失った。
次に頼朝の兵を従えて入京した義経は軍紀が極めて厳粛でそいういう沙汰は皆無であったらしいと当時の公卿の日記が残っている、足利尊氏もそうであった。
京都は世論形成の根源地でもあったと思います。
織田信長が上洛した際、かれもそういう機敏をよく理解しており、兵士の乱暴を戒め、市民にわずかな迷惑をかけた足軽と捕らえ樹につないで晒し者にしたあと首を刎ねたと記録がある。

徳川家康のみはその辺りを理解していたためか京都と絶縁して江戸で政権を立てた。

京モノはやはり「よそ者」は好きになれないってことなのか…

幕末に祇園の人たちが新選組を「みぶろ(壬生浪)モノ」といって嫌悪していたのは、祇園で毎晩会合と称して金を落としてくれていた気前の良い長州の志士たちを斬りまくったせいでもあるし、所詮新選組は「垣の外のひと」、つまりイチゲンさん以下だったんだろうな。だから禁門の変以降、京に残った長州の志士たちを朝敵となっても新選組などから匿ったりした。

ある歴史家は「京都を敵に回すと、とんでもないことになる」って言っていましたがまさにそのとおりか…


そういうことがあってか、京都に来るたびになぜか身構えてしまう私…

本当は田舎者だからかな…(笑)



  1. 2017/03/22(水) 20:47:34|
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プロフィール

yamamtso

Author:yamamtso
カメラ・寺巡り・歴史探訪
そして仏教…
探求してきたことや、
ふと思ったこと、出会い、
そして邂逅(かいこう)等を
残像(Afterimage)として
残していこう。

古いデジカメばかりですが
未だ現役。

camera
NIKON:D7000
FUJI:finepix 6800z
SONY:Cybershot DSC-P150

lens
TAMRON:AF17-50mm/f2.8 VC
Nikon:AF50mm/f1.8
Nikon:AF55-200mmVR
Nikon:AiNikkor35-70mmf3.5
TOKINA:17mm/f3.5 RMC
SIGMA:AF28mm/f1.8 ASFⅡ
TAMRON:AF70-300mm/f4-5.6
       etc

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