今回は写真ネタが尽きて、久々に仏教ネタで少し長くなりますのでテキトーに流してください
先月、わが町の公民館で「人権学習会」が開催されました
市の教育委員会が用意したDVDを町内の住民に観てもらって共有するということです
今回のDVDは、今巷でよく耳にする「LGBT」についての内容
40分くらいのドラマで内容は…
20代の娘一人と夫婦の三人暮らしの一般的な家庭
ある日突然娘が「俺今日から『男』として生きていく、名前も変える」と言い出す
突然の告白で母親や父親はもちろん大きなショックを受ける
母親は「私は女として生んだのに何故急に男として生きていくの??」と…
娘は「これまで自分を押し殺して生きてきたのがどれだけ辛かったか…」と目に涙を浮かべて訴える…
娘が勤める会社ではそういったLGBTに関する理解が進んでいて、上司を含めスタッフ全員が理解、賛成しており、男となった名刺もすでに用意してくれている
色々な葛藤もあり、両親もLGBTに関する勉強を始め、理解が進んで最終的に「娘がどう変わっても自分が幸せになる道を進んでくれたら良い、笑顔になってくれればそれで良い」と最後は理解してくれる内容です

私はこのDVDを観て、ふと「枠」という言葉を思い出しました
私と懇意にさせて頂いているあるお寺のご住職とのメールのやり取りで「誰にでも心の中に『見えない枠』があって、それに頼って生きているんですよ」というご住職の言葉を思い出しました
私が思うには、その「見えない枠」とは国家であり、民族であり、個々の思想であり、性別であり、年収であり、身分であり、肌の色であり…
だったら「そんな人を区別する枠なんて取っ払ってしまえばいいのでは?」と思うけど、枠を取っ払って「裸」になることは人々にとってはどれだけ恐ろしいことなのか…
恐れが怖いために再び「枠」に中に入って守られて安心し、他の人々を区別し差別をする
その枠に頼っているからこそ、世界中で紛争があり続けるんだなァとも思います
仏教ではその「枠」を取っ払うというということが最終目標(解脱ともいう)の一つと説いています
DVDの中で、印象的だったのが、母親が娘のことで会社の同僚に相談するシーン
母親「自分の娘なら誰だって『普通』に生きていってほしいと思うでしょう?」
同僚「今『普通』って言いましたけど、『普通』って何ですか?人それぞれ違う『普通』があり千差万別ですけどね」
学習会の最後で自治会長からDVDを見た感想を役員の一人として求められ、私はその時は抵当な感想を言ってしまいましたが…
あとでもう少し気の利いたコメント方が良かったかなとチョイ反省
学習会に参加していた町民の方で、少しお年を召した方の感想「娘さんの意思を尊重するのが当たり前なんでしょうね、そうすべきだと思います。でももし自分の娘がそうなった場合は、普通に女らしく生きてほしいとは思うでしょうね」
これが正直な感想なんだろうな…
もし私の息子二人が「女性として生きてきます」なんて宣言したらそのときはどうんるんだろう…

観音菩薩…
観音さんは女性っぽい顔立ちすが、女性ではありません
では男性かというとそうでもなくて、中性というわけでもない
観音さんのような「仏」「菩薩」は仏教では”無記”といわれ、男でも女でもないとされており、性に関しては超越した存在であるといわれています
男性だとか女性だとか外観に拘るな
真理は内面にあるということを観音さんは体で表しているんでしょうね
そう中身が大事なんでしょうねいずれにせよ、これだけグローバルな世の中、考え方が広がってきたこの時代に、いつまでも「枠に囚われた考え」や「自分の思っている普通が当たり前」という考えを取っ払わないといけないなとは思いました…
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- 2023/08/30(水) 18:11:27|
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久々の法話ネタです
テキトーに流してください
今朝、自治会の用事で小学校へ行ってきました
ほぼ毎週のように土曜日の午前中は地元小学校に行っております
体育館の中は今月行われる卒業式の準備で椅子や演台などが設置していました

体育館の窓には在校生がメッセージを…

あるアンケートで「思い出残る卒業式はいつでした?」に
●小中学校…39%
●高校…20%
●大学・短大…12%
●特にない…26%
だって…
子供の頃のほうが印象深いんだって
そして「卒業式で泣いたことはあるか?」の問いに、やはり「小中学校の卒業式で泣いたことがある」が圧倒的に多いそうな…
それは悲しいからか?
もう仲間と会えない寂しいからか?
あるお寺でのご住職が語っていた法話を思い出しました
「親しい人が亡くなって、いつまでも泣いたり悲しんだりしていたら『あなたがいつまでも悲しんでいると死んだ人はもっと悲しい、報われない』なんて言う人がいるけど私はそうは思わない、悲しんで良いんですよ。だって悲しみは『愛情の裏返し』ですよ。簡単に忘れちゃあいけませんよ。悲しみしみを抱えたまま生きていくんですよ、生きていくべきですよ誰だって…」
死んだ人を全力で愛した裏返しが「悲しむ」って感情ということか…

従って卒業式で泣いたり悲しんだりするのは
毎日を全力で過ごした裏返し(証拠)なんでしょうね日々を全力で生きる…
これは禅の世界では
「而今(にこん)に生きる」といいます
今のこの一瞬一瞬を大切に生きていくという意味です
純粋に日々を大切に過ごしてきた子供達だから泣いたりするんだろうな…
卒業生たちよ泣いていいんです
胸を張りましょう(^^)と言いながら自分の記憶の中で、卒業式で泣いたり悲しんだりしたことなんて
無いなァ(笑)
- 2023/03/18(土) 19:18:23|
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今回は長くなりますので、テキトーに流してください
久々の仏教ネタです同級生たちから
「お盆の季節だろ、
ありがたい法話をブログで聴かせろ」なんて脅迫まがい(嘘)のメールがよく来てましたが、今年は無かった(ホッ)
まあ長いこと仏教ネタを書いてなかったので、お盆の時期に合わせてそろそろ…
お盆が終わりました、私も先週と先々週と2回お墓参りに行きました
私実家のお墓、カミさんの実家のお墓は同じ霊園内にあるんでそれはそれで助かります
最近は「墓じまい」と称して管理できなくなったお墓を処分したという話をよく聞きますね
私の実家のお墓の横も1年くらい「空き」となっています
そうやって「先祖との会話」する機会がだんだんなくなっていくように感じられるのは思い過ぎでしょうかね…

こんな法話がありました(先日ネットで拾いました)
要約すると…
あるお寺に背の高い和尚さんがいました
そのお寺には1本の大きな楠木(くすのき)がありました、和尚さんは毎朝庭でこの楠木を仰いで見るのが大好きでした
そこへ見知らぬおじいさんが来られ「立派な木ですなあ、さぞかし、根っこもすごいんでしょうな」と和尚さんに話しかけました
それまでは地面から空に向かってそびえる木の姿だけを見て満足していた和尚さんでしたが、「目に見えない土の中まで伸びた根っこも、楠木なんだなあ」と気づかされました
しばらくすると今度は小さな女の子がやってきて「和尚さんって大きいなあ、この楠木みたい」と
「私が楠木かあ、だったら私の根っこってなんだろう」和尚さんは考えて見ました
「あー、なるほど、私の根っこってご先祖様なんだ」と
その和尚さんは自分の根っこに気づいたのです、だって根っこ(ご先祖)があるから今の自分は立っていられるんですから…
とかく私たちは、ご先祖さまや木の根っこのように「目に見えないも」のに気を配ることを忘れがちになります
そんな目に見えない根っこに感謝し、共に生きようと心新たにするのが先祖供養なのです。
以上です…
今の自分があるのもやはり
ご先祖があるからなんてことをこお盆を機会にちょっとでも思い返したら、それが「先祖供養」に繋がるんじゃないかな…
なんてチョイ思ったりして
よく仏教でも「目に見えないものに真実がある」なんてよく言っているのを耳にしますが
表面的なことだけにとらわれて「一喜一憂」している自分に気づかされる日々…

「家族写真」専門の、ある女性フォトグラファーの話とその写真に感動しました
●先天性の病気があり手術を受ける予定の赤ちゃんを抱いた母親の写真で…
この赤ちゃんの背中にメスを入れる前に「今の傷一つ無い”無垢な背中”を撮ってほしい」とのご両親の依頼
”撮影中ご両親が『こんなに小さいのに』『手術がんばるしかないね』と、女の子に何度も語りかけていました
それを聞いていて絵に描いたような美しい写真を撮る必要はない
私にできることは、このご両親の女の子への愛情と応援を残すことだと感じました”
●結婚式場でウエディングドレス姿の新婦がブーケを片手に窓に立つ写真で…
”ウエディングドレス姿を撮影するのにも、ただ白くてきれいだと思ってシャッターを押すのと、そのドレスを選ぶまでの時間、結婚への不安や葛藤、それらを越えて、いま会場で祝福されているという喜び……
そうしたものを踏まえてシャッターを切るのとでは、同じドレス姿でもまったく違った1枚になります”
彼女が最後に語っていた言葉…
美しいだけの写真はいらない表面的な美しさをだけを求めて写真を撮るのではなく「目には見えない大事なこと」に向き合ってシャッターを押しているんだなと感心した次第です

そういう想いで私も写真を撮っていきたい
なんてエラそーなことを言っているが、なかなかそれが出来なんだなァ(恥ずかしながら)…
長文多謝…
- 2022/08/16(火) 00:03:18|
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今日はいつも以上にマニアックになりますのでテキトーに流してください…
ネットでの、あるお坊さんの法話がグサッと刺さりました

お坊さんが檀家のある写真家の家にお参りに行った時のお話…
お坊さん「今月は中秋の名月ですが、綺麗な月が撮れるといいですね」
写真家「月が出ているかは問題ではないですよ」
これを聞いたお坊さんは少し面くらいました、『月が出ていなければ、撮る甲斐がないのでは?』そう言いかけたお坊さんの表情を察してか、彼はこのように続ける
写真家 「禅の言葉に、『明歴々露堂々』というものがあるでしょう。僕はこの言葉を写真家としての座右の銘にしているんです。写真とは『真実を写す』と書きますが、例えば月が出て目に見えているときだけがいわゆる真実ではないと思うんですよ。雲に覆われていても月はその裏側にあるし、お昼間だって目に見えないだけで確かに存在している。目に見えるものだけではなく、見えないけれど確かにあるはずの真実に目を向けていくことでより良い写真が撮れる気がするんです」
これは写真家としての矜持(きょうじ:自負、誇りの意味)なのでしょう、更に
写真家 「『真実』と言うと大げさに聞こえるかもしれませんが、本当は私たちの身の回りの当たり前のことひとつひとつが『真実』なんでしょうね」
お坊さんはこの一言で、月が出ていなければ写真映えしないではないかと思っていたの自分の考えが打ち砕かれたそうです
「明歴々露堂々(めいれきれきろどうどう」※禅語の一つで、歴然と明らかに堂々と顕露していて、すこしも隠すところがないという意味
とかく私たちは雲に隠れた月を見ようと、ままならないことに躍起になったり、月を隠す雲を疎んじたりしてしまいがちです

写真の撮影でいうと、例えば…
「あの時、風が吹かなかったら奇麗に花をブレずに撮れたのに…」
「あの時、車が通らなかったら、列車と富士山だけのコラボが撮れたのに…」
「せっかく遠くからやってきて粘ったのに、撮りたかった野鳥が結局現れなかった…」
なんて話をよく聞きますが、自分たちの意識でどうにもならないことを悔やんでも仕方ないこと
見えていようが
雲に隠れようが
月は月目の前の「真実」純粋に受け止めることが大事
そう思え、とうことか…
※写真は先日行った「思い出博物館」のカメラコーナーで展示されていた「カメラを持った人形」たち「明歴々露堂々」…自然そのまま、ありのままが「尊く有り難い」ことだと思って受け入れるなれれば
撮った写真がブレていたって、撮りたくないものがいきなりフレームインしても「しょうがねえなァ~」なんて笑顔で割り切れるようになればね(中々難しいかもね)…
- 2022/05/19(木) 07:11:47|
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今日は長い独り言なんでテキトーに流してください…
先日訪ねたお寺で私が懇意にしているある僧侶の方が、写経会の後の法話で語っていました
「皆さんの目も鼻も口もすべて外に向かって針、つまりアンテナを延ばしている、だから人や世間ののことばかり気になって仕方がない…でも”自分の在り方”を見直さないといけないときがあるんです、外に伸ばした針をたまには自分、つまり内側にに向けてみてください」
そして般若心経の冒頭の言葉、「観自在菩薩」という文字をホワイトボードに書いて
「”観”は見るだよね、”自”は自分、”在”はあり方、つまり自分の在り方を観ろ」
「自分の手をかざしてごらん、そして指を握ったり離したりしてごらん、これはすべて”自分の意思”でしか動かせないはず、他人の意思なんかでは到底、自分の指を動かすことはできない」
「だから他人や外の出来事に動じず、”自分の在り方”をしっかり観ることが大事だってことをここで言いたい」
「自分の大事な体を、他人や外の出来事に合わせてどうにでも動かしていたら悲しいことだよね」
そしてそのお寺で買った「日めくりカレンダー」の裏に直筆のサインをしてくださいました
「観自在」
人を笑わせことを職業とする人の悲しい知らせを聞きました
私と同じ兵庫県出身、年齢も近いことで親近感があったので残念で仕方ない
「まさかあの人がそんなことをするなんて…」と全国の人がそう思ったに違いない
どんな人でも誰にも知られない闇というのがあるんだなと改めて痛感した次第です

私は苦しいことを苦しいと言える人間だと自分でも思っているし、家族を含めどんな時でも信じて理解してくれる人が周りにいて本当に幸せなことだと思いました
思ったことはすぐに口に出すし(逆に周りにしたら迷惑かもね)、悩んでいる人の話は本当に真剣に聞こうとは思っています(実際にできているかは不安ですが)
そういう考え方が「闇」を少しずつ溶かしていくんだろうかね…
そう考えたりして
「自分の在り方」についても深く考えてみたいと思います
「お前の写真は暗いぞ」
なんて高校の同級生(写真部)から昔言われたことがあった

「確かにね、それは反論できないな」と返事しておきました

「でもね、暗い中にも一筋の小さい明りがあればストーリーができるじゃないか」とどっかの写真家が言ったような言っていないような…

これが自分の在り方の「断片」だと思うし、変えようとは思わない
写真には「闇」があっても心には「闇」は無い
暗いのは写真だけ
そう思い続けてシャッターを切っています
- 2022/05/12(木) 07:58:22|
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